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建寿御前日記 第二段「むそじの夢」 [【建寿御前日記(本)】]

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前回から大分間が空いちゃいましたが、久しぶりに「建寿御前日記」です。
最初は面白い小段だけ選んでご紹介しようかなと思ってたんですが、まぁ別に急ぐものでもないからゆっくり順番にやっていこうと思います。

ただ、段落によっては女房の名前が羅列してあってそれぞれ誰なのかを紹介してある小段とか、なになにの御賀のときの女房の装束がずらずらと書き連ねてあるだけの小段とかあるので、そういうのはカットでいこうかなと。
資料としては貴重なんでしょうけど、読んでても面白くないしね。

ただ、女房の装束の羅列はある意味面白いです。
よくこんなに書けるな・・・という意味で。
建寿御前は現代に生まれたら、衣装代が収入の30%とかいうタイプだろうと思います(笑)

【第二段 本文】

あけくれぬとばかり、まだおなじ世にながらふときくたぐひの、わづかにのこりたるも、むかし見し人の、おのづから、こととふもなし。むそじのゆめは、時のまのここちすれど、思ひつづくれば、さもいふかひなく、思ひいでなき身の、さすがに、をさなしともいふべかりけるほどより、宮仕へとかや、人の、よからずいひふるしためることを、くちばがしたに、かくれはてたらんをだに、とるかたならずなりそめにける身を思へば、さまざま、うつりかはる世のありさま、人のこころも、ただ、我がよばかりに、むかしいま、けじめしるかに、かはりはてにけるかなと思ふに、今さら、よしなきふるごとさへ、思ひいでられて、つづきもなく、いふかひなき、昔ものがたりを、つれづれなるままに、いひいづれば、かたはしをだに、その世を見ぬひとは、さすがに、きかまほしうするもありけり。

ふるめかしかりし人々は、いまやうの、めづらしく、みならはぬとのみいひしかど、今は、それも、かぎりなく、こだいなる昔がたりになりにけり。

【訳】

明けぬと暮れぬと(日々は徒に過ぎ去り)、まだ元気でいると聞く(昔の知り合いである)人々がほんの少し残っているものの、(その)昔顔を合わせた人が、自然と、訪ねてくることもない。
六十年の夢はほんの一瞬の気持ちがするが、色々と考えてみると本当につまらなく、思い出しがいのあるようなことのない我が身が、幼いといってよいころより、宮仕えとかいう世間の人が良くないことのように言い古していることを、朽ち葉のしたに隠れて終わってしまおうと思っていたのに、しかも(その宮仕えでも)下役で終わってしまうようになる(その)始めとなったわが身を思えば、様々と移り変わる世のさま、人の心も、ただ六十年という自分の一生の中だけで、昔と今ははっきりと変わり果ててしまったなぁと思うと、そうはいってもやはり今さらながら、つまらない昔のことさえ思い出されて、続きもなく、大したこともない昔の思い出話をつくづくと物思いに沈むままに話し出せば、その少しだけでも、当時を知らない人は、やはり、聞きたがる人もいる。

(その当時の話を、当時の)古風な人々は、今風で、めったになく、見慣れないとばかり言ったけれど、今となっては(それも)非常に古臭い昔語りになってしまった。

【コメント】

何といっても今年の大河は「平清盛」。建春門院滋子さまも大河に出演されるということで、タイムリーです。
もしかしたら八条院も出るかもですね。

今回ご紹介した第二段も前書きみたいなもんです。

昔の知り合いも、少しは元気でいるのもいるけど、あんまり行き来もしてません。
小さいころから宮仕えをしてきたけど、大して出世しないで終わっちゃったし、この60年のことを思うとホント世の中変わっちゃいました(平家の没落を経験してるのでそりゃそうでしょう)。
当時自分が体験した話をすると、当時を知らないような若い人は結構聞きたがったりするんですよね。
そのお話の内容は、当時の古臭い人たちは「なにそれ、最近の若い人は全く、見たこともないような奇抜なことを」とかいったけど、今になってみると当時の奇抜だったことも古臭いかも・・・。

↑こんな感じの内容です。

そうそう、大河ドラマ視聴率がやばいらしいので、興味のある方はぜひ見てあげてください。
5月の末に保元の乱らしいので盛り上がりますよ♪

【建寿御前日記(本)】・・・連日更新しちゃった。


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建寿御前日記 第一段「かたみの花」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第一段 本文】

たまきはる いのちを あだに ききしかど きみこひわぶる としはへにけり

あるかなきかの身のはてに、時のまも思ひしづめむかたなきかなしさの身にあまりぬるはてはては、まことに、しのびもあへぬ、うつし心もなきここちのみすれど、かぞふれば、ながらへにけるほども心うし。

さりとて、かかるもの思ふ時だに、ひたすら、うきよをいとひはなるるる道のしるべとも、思ひとられんをだに、うれしかりけるさきのよの御契とも思ひなさまほしけれど、月日のへだたり行くままに、ただかきみだし、いふかひなく、こひしき御おもかげのみ、つゆばかりなぐさむかたなし。

なにによそへて、おのづから、思ひなぞらふるかたもありなんと、せめて思ひまはせど、この世のいろもにほひも、あかずのみ、きらはしきこそ、せんかたなけれ。なほ、やよひの空、あたりもにほふるばかりなるさくらばかりや、おほかたのことさまにも思ひよそふれど、さしもほどなき色をわきし御名のうらめしさにつけても、さすがに、思ひすつまじきここちして、いたづらになるままに、ながめくらす日かずの、いくかとだに、たどられぬに、うつろふ、ほどなき風のなさけなさも、見しゆめにかはらず。

あぢきなき そのなばかりを かたみにて ながむる花も 散るぞかなしき

【訳】

命を儚いものと聞いていたけれど、わが君(建春門院)をお慕い嘆く年月は長く経ってしまった。

あるかないかの様であるわが身の果てに、ちょっとの間も心が穏やかになりようがない悲しさが身に余る(その)しまいには、本当に、我慢しきれない、正気もない感じばかりするが、数えてみれば、長生きをしてきた年月の長さがつらく思われる。

とはいっても、このこのような物思いの時ですら、もっぱら仏道修行の道しるべと自然と悟る(こと)さえ、ありがたい前世の御縁であるとも思いこみたいけれど、月日が経っていくにつれ、心を乱してばかりで、みじめで、恋しい(建春門院様の)御面影ばかりが(思われて)、少しも心が晴れることがない。

(建春門院の美しかった面影を)何かにことよせて(思うならば)、自然と、思い比べるものもきっとあるとつきつめて考えてみるが、この世のどんな美しいものも、とても満足できないだけで、いとわしいのは、どうしょうもない。やはり、三月の空に(映える)、あたりが美しく色づくほどである桜だけが、大体のご様子にも思い比べることができるけれど、あれほどはかない花を御名にもった(その)悲しさにつけても(つらいが)、そうはいってもやはり見放すことが出来そうにない感じがして、何もすることがなく、物思いに沈んでぼんやり暮らす日々が、何日と数えられないうちに、散ってしまう、すぐ吹く風の無常さも、かつて経験した(建春門院さまの)御崩御と同じである。

悲しい思い出の名である桜ばかりを建春門院さまのかたみと思って、所在無く眺める桜の花も散っているのが悲しい。

【コメント】

本段で書かれているのが建春門院なのか、春華門院なのかは争いがあり、「さしもほどなく色をわきし御名」とあることから春華門院のことを書いたのではないかとする説もあります。
ただ、手持ちの本に「建春という御名を春の花である桜になぞって書いたのだ」と解説があったので、今回はそれによりました。

【建寿御前日記(本)】・・・前書きみたいな小段です。


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健寿御前日記(健壽御前日記) 第三段「建春門院の御心ばへ」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第三段 本文】

建春門院と申ししは、世をへだてたるふるごとにて、御名などだに、おぼめく人も多からんかし。むかしいま、かぎりなかりし御契り、世のおぼえにうちそひて、おほかたの御心おきてなど、まことに、たぐひすくなくやおはしましけん。

朝夕の御ことぐさに、「女はただ、心から、ともかくもなるべきものなり。親の思ひおきて、人のもてなすにもよらじ。我が心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから、身にすぐる幸ひもあるものぞ」と、おほせられし御いさめに、若きかぎり、まして、親などたちそひたるは、おのおの、心の中やいかなりけん、もてなしたりしうはべばかりは、まことに、宮仕へ人など、いひおもへるさまにこそ見えざりしか。
いかで、人にこゑをもきかれじ、まして、はづれさまにも、かげをも見えむは、うたておそろしうのみ、つつみあへりしかば、さすがに、さらぬ所には似ざりけりとも、のちにぞ思ひあはする。

【訳】

建春門院と申し上げた方のことは、何年も昔のことで、その御名前さえよく知らない人も多いでしょうね。昔も今も、後白河上皇からのこの上ないご寵愛、世間の尊敬の上、すべての御心がけなど、本当に比べるものがなくていらっしゃったようだ。

いつも仰せのお言葉で「女はただ、心がけ次第でどうとでもなれるものだ。親の思惑や周囲の世話によるものではない。慢心せず、自分をつまらないものと卑しんだりしなければ、自然と身に過ぎる幸せにもめぐり合うものである」と仰せられた御教訓に、若い時分の私やまして親のついているしっかりした家の女房達は、それぞれその心の中はどのようであったか、その振る舞いの表面は本当に、世間が官女という目で見るような様子には見えなかった。
どうにかして、人に声も聞かれないようにしよう、まして、几帳や簾のはずれからでもちらりと(自分の姿が)見えるとしたら、ひどく怖いと、みんなはばかりあったので、やはり他の御殿とは違っていたと、後になって思い合わせた。

【コメント】

この小段は、建春門院がいかに後白河上皇に寵愛されていたか、日々接するその人柄がいかに素晴らしかったかを述べています。

建春門院の「常に前向きに頑張りなさい」という教訓にしたがって、お付きの女房達全員が威儀を正してお仕えしていたので、建春門院の御殿は他の御殿とは違い謹厳ですばらしいところであったと言う内容です。

この文章だけ読むと建春門院は素晴らしい人格者のようですが、それはそれ、お仕えした女房が書いたものですから少しは差っぴいて読まなければいけません。
とは言っても、建春門院が美貌だったことは確からしく、後白河上皇の寵愛は終生衰えることはなかったようです。(ただ、建春門院は36で死去しちゃうので、もっと長生きだったら分かりませんが)

政治に積極的に介入して以仁王の親王宣下を妨害したり、平家の昇進を後押ししたりした点から考えても、彼女ははかなく心優しいタイプとは程遠く、エネルギッシュなタイプであったと考えられます。
出自が低いところもそういう性格に影響しているのかもしれません。
ヴァリエール嬢ではなく、モンテスパン夫人タイプということです。モンテスパン夫人よりはポンパドゥール夫人かも。

歴史に「もし」は意味がありませんが、彼女の政敵の二条天皇がもっと長生きだったら彼女が院号を受けることなどなかったかもしれません。または逆に彼女がもっと長生きだったら、平氏の没落は防げたかもしれません。
そう考えると感慨深いですね。

※以仁王の親王宣下妨害に関しては、そもそも実母の位が低かったから親王宣下の可能性がなく、建春門院が妨害したわけではないという意見もあります。
しかし、そもそも以仁王の母親である藤原成子は藤原北家支流閑院流の出身で、成子の叔母は待賢門院障子(後白河院の生母)で、母の出自が悪いとまではいえないと思います。また以仁王は八条院暲子内親王の猶子になっているので、この点からも母の出自は問題にならないはずです。むしろ、憲仁親王(高倉天皇)の即位で利害が一致していた父・後白河院と平氏の妨害があったと考える方が自然です。建春門院がどこまで具体的に関与したかは不明ですが、やたら気が強かった様々なエピソードと照らし合わせると、けっこう裏で手を引いたんじゃないかと思われます。

【建寿御前日記(本)】・・・有名な小段みたいです。


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健寿御前日記(健壽御前日記) [【建寿御前日記(本)】]

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書名:健寿御前日記(健壽御前日記)

作者:健寿御前

ジャンル:日本古典 平安末期~鎌倉初期

この本は以前神保町で買ったもので、結構お気に入りです。
朝日新聞社から出たもので、コンパクトで電車の中とかで読むのにお勧めです。
この朝日新聞社の「日本古典全書」シリーズは古本として結構出回っているので、機会があったらチェックしてみるといいかもです。

さて、この本はここでは「健寿御前日記」として記事にしていますが、他にも「たまきはる」「建春門院中納言日記」「健御前日記」など色々な名前で呼ばれています。

「健寿御前日記」「建春門院中納言日記」「健御前日記」→筆者の女房名などから
「たまきはる」→冒頭の「たまきはる 命をあだに 聞きしかど 君恋ひわぶる 年は経にけり」の歌から

別にどの名前でもいいので、ここではとりあえず「健寿御前日記」で統一したいと思います。(ただ、一般的には「たまきはる」や「建春門院中納言日記」の方がメジャーな呼び方らしいです)

作者は藤原俊成の娘で定家の妹(姉との説もあり)という超エリート和歌一家に生まれ、女房として建春門院、八条院、春華門院につかえ(正確には八条院に勤めていた時春華門院付きになったってことだと思いますが)、最後はまぁお決まりの出家をして自分の人生の回想録を書いた・・・というわけです。

※建春門院→本名は「平 滋子(たいら の しげこ)」。お姉さんは、あの平清盛の継室である平時子(二位尼)。滋子自身は後白河天皇の后の一人で、しかも天皇の寵愛が深かったため平家台頭に大いに尽力、彼女の生んだ憲仁親王は後に高倉天皇として即位。
筆者が最初に仕えた人物。(十二歳~二十歳)

※八条院→後白河天皇の父である鳥羽上皇の寵愛が深かった美福門院の娘であったことから自身も鳥羽上皇に愛され、上皇亡き後はたくさんの遺領を受け継いだ。ただ、おおらかな性格だったせいか、内向ではうるさいことは言わなかったと日記にあり。ただ、その莫大な財力と鳥羽院の正統という出自からかなりの政治力をもってもいたようです。
後白河天皇の異母妹にあたる。後白河院とは仲がよく、その院政を支えた。
筆者が後に仕える人物。(一時的な退出などを含め二十七歳~晩年の五十六歳くらいまで)

※春華門院→後白河天皇の孫である後鳥羽上皇の娘。八条院の養女となったため八条院の莫大な所領を受け継ぐが、八条院が亡くなった同じ年に17歳で崩御。この本で読む限り素直で可愛い感じ。筆者は春華門院が五歳になるまで養育に携わったが、それ以後はその任を外れていた。ただ、春華門院のことはその後も強く気にかけていた様子が日記から伺える。

この登場人物を見て分かるように、この本の時代は丁度平家の台頭と没落にかぶっているんです。
平家物語で読んだ人物が、彼らと間近に接した人の筆で書かれているのを見ると何だか感慨深いです。
平家関連で有名な「建礼門院右京太夫集」は、「平家物語とキャラ違くないか?」って登場人物が結構多いんですが、こちらの「健寿御前日記」のは平家物語とのキャラのぶれもそれほどなく安心して読めます(笑)。
といっても、平家物語よりは実際に平家の人々と接した人が書いた「建礼門院右京太夫集」や「健寿御前日記」のほうが実際に近いんでしょうめど。

いくつか面白そうな小段を紹介しようと思ったのですが、長くなっちゃったのでまた今度。

関連本としては日記の「玉葉」「吉記」「兵範記」、私家集「建礼門院右京太夫集」、歴史書の「本朝世紀」「今鏡」、史論「愚管抄」など。

★今後、訳を作るときは、
・日本古典全書 「建寿御前日記」 校注:玉井幸助
・新日本古典文学大系 「とはずがたり たまきはる」 校注:三角洋一 
の注釈、解説を参考にしています。

★また、法住寺南殿、七条殿、の殿舎の配置は「『建寿御前日記』私註(二)」 本位田重美」を参考にしています。

★nakonakoの作る訳は素人レベルです。間違っちゃってるところがあるかもしれません。

【建寿御前日記(本)】・・・自分が読んだ本。


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