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【建寿御前日記(本)】 ブログトップ
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建寿御前日記 第十三段 「修正の御幸」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第十三段 本文】

修正(すしゃう)の御幸(ごかう)、八日、十四日法勝寺、十一日圓勝寺、とかや。十八日法華王院、これらの料に、おのおの衣(きぬ)二具ばかり、物具かさねながら、あざやかにておきたり。人多かれば、修正の御幸には、ふたたびづつぞ参りし。近習は別の車にて、物具かさならぬ衣にて、御幸よりさきに参る。

【訳】

修正の法会への女院のお出かけは、八日、十四日は法勝寺、十一日は円勝寺とかいうことである。
十八日は蓮華王院で、これらの(お出かけの)お供の装束としてそれぞれ衣装を二揃いほど、裳、唐衣を重ねて目も鮮やかに準備している。

※修正→国家安泰を祈願して正月に行われる正月の法会。

女房の人数は多いので、修正の法会への女院のお出かけには(それぞれ)二回づつお供した。
側近の下郎の女房は、別の車で、裳、唐衣をつけない装束で、女院のおでかけよりも先に(法会に)参上する。

※近習→側近の下郎の女房。

【コメント】

今回も短かったです。
お正月の法会への女院のお出かけについての記述です。

★今月がんばって何とかカレンダーが市松模様になりました!
わ~い。こんなに頑張って更新したのは初めてです。
これで来月からは心置きなくだらだら更新に戻れます。

★建寿御前日記も第十三段まできたので、ここらでちょっと見直し作業をし、気になっているところを直そうと思います。
物具装束の解釈とか、やっぱり比礼(ひれ)、裙帯(くたい)、宝冠なしの裳、唐衣装束で、袴が生袴でなく張袴と解した方がいいような気がしてきたので。
後、第八段の常陸の所の解釈も、自分の採った説ではない方の説のほうが適切のような気がしてきました。

【建寿御前日記(本)】・・・ここらで気になるところを直します。


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建寿御前日記 第十二段 「行幸の折の服装」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第十二段 本文】

行幸には、ことに、心をつくしたる衣を、上着、唐衣のもんなどは、かはらず、わざと同じもんを、唐衣をば小さくて、上着はなべてのほどにてなど着あひたりき。それも、おとなは、ただ三日おなじほどなるもあり。若きは、唐衣に紐つけ、花結びなどしたるも見えき。

【訳】

朝覲行幸のおりには、特に気を使って用意した衣を~その衣は表衣、唐衣の文様は同じで、わざわざ同じ文様を、唐衣のを小さく、表衣のは通常の大きさにしてなどして~皆で着た。
それ(=朝覲行幸の時の衣)も、年配の者は、単に三が日の装束と同じである者もいる。
若い者は唐衣に紐をつけ、飾り結びなどをしているのも見えた。

※行幸→天皇の外出のこと。以前は、天皇、上皇、法皇、女院などの外出を区別せずに「行幸(みゆき)or御幸(みゆき)」と言っていたが、中世以降は、
・行幸(ぎゃうごう)→天皇の外出
・御幸(ごかう)→上皇、法皇、女院の外出
という使われ方をする。
cf)太皇太后、皇太后、皇后の三后、東宮、東宮妃の外出は「行啓(ぎゃうけい)」という。
※朝覲行幸→朝覲(ちゃうきん)とは、天皇が院、女院へする挨拶の儀式。朝覲のための行幸を「朝覲行幸」という。
朝覲は正月の他、践祚、即位、元服の時に行われ、それ以外には臨時に行われることもある。

【コメント】

今回は天皇が院御所(もしくは女院の御所)へ正月の挨拶にやって来た時の様子です。
そんなに長くないのでたいした内容じゃないのですが、「行幸、御幸」「行啓」の区別は受験的には大切だったような記憶が。後、
・奏す→天皇、上皇に対して「申し上げる」
・啓す→三后(太皇太后、皇太后、皇后)、東宮に対し「申し上げる」
もセットで覚えておくってやつありましたよね。懐かしいですね。

唐衣と表衣に、大きさだけ変えて同じ文様をつけるってオシャレですよね!
上の衣の方が小さい模様って何かいいなと思います。

若い子は唐衣に紐をつけて飾り結びにしているということですが、唐衣の襟に上から下に沿って飾りの飾り紐を垂らしていたということです。

★さて、先週の清盛、またまたよかったです。
由良御前が亡くなるまで源氏の摘妻として誇り高かったところとか、それでも、源氏の誇りを投げ打ってでも平氏のところへ宋の薬を取りに行ってくれようとする夫義朝に「あれ、殿らしゅうもない。されど、うれしや」っていうセリフとか。
来週は平治の乱なので、その前ふりとして信頼が源氏を巻き込んで二条天皇の側近達と「信西憎し」で結託していくところが描かれてました。でもこいつら信頼+義朝を裏切るんですよね。
最後のシーン、信西のところへ源氏の軍勢が迫り来る様子が、だんだん高くなる地響きで表現されていて素晴らしかったです。

【建寿御前日記(本)】…遠い昔の受験の知識が。


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建寿御前日記 第十一段 「雑仕御覧と四日の服装」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第十一段 本文】

三日、御所の御はしたもの、雑仕をはじめて、つぼねつぼねの雑仕御覧ず。四日、親々など殊にしたつる若く幼き女房は、日ごろ、いまだ着ぬ衣(きぬ)の、上、むらご、そめつけ、摺(すり)、などやうに仕立てたる衣の、物具(もののぐ)かさならぬをぞ着たる。おとなしき、又、ことなる事なき人などは、一日の日の衣などを、物具へぎて着る。おほかた、むらご、そめつけ、などやうの物、上にしたる衣には、物具かさぬる事なし。

【訳】

三日には、御所の下仕えの者をはじめ、それぞれの局の下仕えの者を(女院が)御覧になる。

※はしたもの、雑仕→下位の下仕えのこと。はしたものが童女で、増仕が成女との解説あり。
※御覧ず→いつもはお目見え以下の者を、特別に正月だけは女院が御覧になるということ。多分お言葉はなく御覧になるだけ。

四日には、親たちが特に気を使って支度をさせた若く幼い女房は、普段袖を通したことがない衣で、表をむらご、そめつけ、摺などのように仕立てたもので、裳、唐衣をつけないものを着ている。
年長の者、また、普通の者(親が特に気を使って支度をしているというほどでもない者)などは、一日の日の装束を、裳、唐衣を重ねないで着る。
一般に、むらご、そめつけなどをした衣、(つまり)表に(手の込んだ)施しをした衣(の上)に、裳、唐衣を着ることはない。

※日ごろ→ふつうは「数日間」と訳すが、ここは「いつもは、普段」の意味。
※むらご(斑濃)→全体のところどころをぼかす染め方。
※そめつけ→藍色の文様を染め出したもの。
※摺→木枠をはめて模様をすり出したもの。

※物具かさならぬ→ここで、本文でいっている「物具」とは何かが問題になります。これは書いてある本によって差があってよく分からないのですが、

1、比礼(ひれ)、裙帯(くたい)、宝冠のこと。
2、1+裳、唐衣
3、2+打衣、表衣

の三通りの可能性があります。

1の場合→むらごなどが施されているのは唐衣
2の場合→むらごなどが施されているのは表衣
3の場合→むらごなどが施されているのは袿(五衣)の一番上の衣

ということになるのですが、一応2によってみました。

さらに、本文では
A.物具かさならぬ
B.物具へぎて
と二通りの表現をしているのですが、本によってはAの物具とBの物具を別の意味に解釈していたりして、ややこしいです。
ここでは、A、Bともに2であるとして訳を作っています。

★裳、唐衣と物具装束

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        裳、唐衣                    物具装束

イラストにするとこんな感じになります。
物具装束-「1の意味での『物具』」=裳、唐衣です。

ただ、本文での物具は「2の意味」と解していますので「物具かさならぬ」「物具へぎた」状態は、以下のような感じになります。

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(小袖)→単衣→袿(五衣)→打衣→表衣⇒下は長袴(もしかしたら張袴)
一番上に来る表衣に美しい染め、摺りがなされているということです。

【コメント】

今回は「雑仕御覧」と「四日の装束」です。
ふだんはお目見え出来ないで働いている人たちも、お正月は女院さまに会えるなんて、ちょっといい話ですよね。
現代人の目からしたら建春門院さまはたかだか公家平氏の出身で、あんまりありがたみを感じないかもしれませんが、実際女院に仕えた雑仕女たちにとったら、きっとお目見えはありがたいことだったと思います。

四日の装束は三が日に比べるとくだけてきますが、まだまだオシャレしてます。
個人的には物具装束じゃない方が女房の装束としては綺麗だと思います。唐風より大和風のほうが日本の風土、四季、邸宅にはあっているような気がするので。
女房装束はフォーマルになればなるほど中国風になってるのが面白いです。

★先週の清盛、niceな回だったのですが、特に義朝のへたれっぷりが秀逸でした。
せっかく昇殿を許されたのに周りのお貴族様から「あれが親を切って左馬頭になった義朝よ」と陰口をたたかれ、ライバル清盛に行き会うと、あちらは黒の装束で、自分の緋の装束と明らかな差が・・・。
その上、信西に「保元の乱の恩賞をくれ」と談判に行っても居留守をつかわれ、それならばと待ち伏せて直談判したら「忙しいんで」とシカトされ、茫然自失する義朝。あ~あ、かわいそう。
ちょとうれしかったのは由良御前のコネで嫡子頼朝が皇后宮少進になったくらいですが、その由良御前は病に倒れちゃうし、踏んだり蹴ったりです。
こうしてだんだんと平治の乱につながっていくんだなぁ。
来週由良御前死んじゃいそうなんですよね。ますます目が離せません。

【建寿御前日記(本)】・・・お正月のオシャレに詳しくなりました。


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建寿御前日記 第十段 「正月三日がほど」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第十段 本文】

正月一日は、御所にも、うるはしく、打御衣(うちおんぞ)、御張袴(おんはりばかま)、御上着、御小袿(おんこうちぎ)、かさなりたる御衣たてまつる。女房、近習(きんず)たちも、みな、物具(もののぐ)かさなりたるきぬ。

ついたちの日は、紅梅、梅がさね、くれなゐのにほひ、などやうの、いろいろ。二日、ことに仕立てぬほどの人は、つごもりの日、まゐらせたる打出(うちいで)を、ついたちの日は、夜になりて給はりて、わた、例のほどになしてきる。打出は、番などにゐるほどなる、さもあるほどの人々、衣五つ、わた百を給はりて仕立てて、裳唐衣をば具せず、つごもりにまゐらせたれば、ずりやうの廿ぐしてまゐらすとかやいひて、織物の唐衣、白腰の裳、具して、ついたちの日の夜、給はるを、色ゆりぬほどの上臈は、やがて着る。尼などは、唐衣はとどめて、三日、御くすりもて来たる得選(とくせん)、女官(にょうくわん)などにぞとらせし。三日は又、仕立てたる衣ども、物具、ついたちに同じ。桜、山吹、萌黄などを、むねと着る。

三日がほど、御所、西むきの御所へいでさせおはしまして、女房、端のたたみに、南をかみにて、台盤所のひきもののきはまで、たたみ二でふに、三人などゐるほどに、衣のつまどもあふほどに居ならびて、御歯がため、朝餉の物のまゐるを、次第にとりつぐ。片手をつらぬきながら取りて、いま片手に取り渡して、かたはらの人に伝へ伝へ、同じさまに、御陪膳(ごはいぜん)の人までとり渡す。七條殿にては、やがて、昼の御座にて、礼拝果つるままに、このことあり。せばくて、西の母屋(もや)まで、女房、上臈のかぎり居ならぶ。西の廂の障子のほどまでは、中臈もてまゐる。台盤所、台盤のうらうへに、中臈下臈廿人ばかり居ならぶ。

【訳】

正月一日には、女院さまにも美しく、御打衣、御張袴、御表着、御小袿を重ねてお召しになる。女房、側近の下臈たちもみな、裳唐衣よりもさらに着重ねた正装を着る。
一日の日は、紅梅の匂、梅重、紅の匂ひなどの色々な衣装を着る。

※女院は(小袖)→単衣→袿(数枚)→打衣→表着→小袿⇒(下は)張り袴を着ていると思われる。
※「かさなりたる御衣」→上記の衣が重なっているさまをいうのか、上記の一部が縫いとめられた衣であることをいうのか良く分かりません。
※「物具かさなりたる」→裳、唐衣より、より改まった正装(物具装束(もののぐしょうぞく))のこと。裳、唐衣の上に比礼(ひれ)、裙帯(くたい)をまとい、髪を不結って宝冠をつける。
※紅梅…「紅梅の匂」の襲色目のこと。通年使用、祝儀用。紅梅色を基準に薄いものから濃いものへとグラデーションを作ったもの。グラデーションの最後に青(暗い緑)を差し込む。
※梅襲…「梅重」の襲色目のこと。五節~春に使用。紅梅のグラデーション(淡→濃)→紅→濃蘇芳→紫紺の順に重ねる。
※紅の匂ひ…襲色目のひとつ。通年使用、儀式用。紅を基準にグラデーションを濃いものから薄いものへと作り、最後に紅梅を入れる。

二日には、特に自分で衣装を新調しないような女房は、大晦日に(御所で)新調した打出の装束を、一日の夜になって頂いて、綿を普段通りにして着る。
(御所で新調した)打出の装束は、番の女房あたりの身分で、裁縫の心得のある女房達が、絹五疋、綿百斤を頂いて、仕立てて、裳、唐衣はつけないで、大晦日に(御所に)お届けし、(それに)受領が二十取り合わせて献上したとか言う、様々な文様を織り出した唐衣、白い裳をつけて、一日の夜に下さるのを、勅命で色を許されていない身分の上臈女房は、(それを)そのまま着る。

※「綿、例のほどになして着る」→「綿を普段通りにして着る」としましたが、正直よく分かりません。後の記述から考えて、頂いた時点で打出の装束にはすでに綿が入っていると思われるので、それにさらに綿を入れるってことでしょうか?
※白腰の裳→白い腰裳(腰のあたりを覆う短い裳)のこと?と思いましたが、そもそも腰裳は上代の衣装だし、正月の正装でそれを着るとも思えないので、やはり白い裳(長いもの)のことでしょうか。ここもよく分かりません。
※色ゆりぬ→禁色は使用を許されていない色のこと。青(天皇の袍)、赤(上皇の袍)、黄丹(皇太子の袍)、深紫(一位の公卿の袍)に加え、支子、深緋、深蘇が禁じられた。支子、深緋、深蘇が禁じられたのは、支子は黄丹に、深緋、深蘇は深紫に似て紛らわしいから。これを使うには勅許がいるが、「色ゆりぬ」とはその勅許を貰っていないということ。

私などは、唐衣は手元に残して(着ないでおいて)、三日に御薬を持ってきた得選や女官などに与えた。
三日は、また、仕立てた装束を身に着け、(それが)裳唐衣よりもさらに厳重に着重ねた正装であることは、一日に同じである。桜躑躅(さくらつつじ)、山吹の匂い、萌黄の匂いなどの襲色目を主に着る。

※御薬→正月に、屠蘇、白散、度嶂散の三種の薬酒を献じる儀式があった。
※得選→御厨子所に仕える下役の女房。
※女官→御湯殿、御厨子所などに仕える下役の女房。
※桜→「桜躑躅(さくらつつじ)」の襲色目のこと。紫→薄い紫にグラデーションを作り、次に白、青(緑)、紅の順に差し込む。他に「樺桜」の可能性もあり。「樺桜」は紫を何枚も重ね、最後に紅を入れる。両者とも五節~春に使用。
※山吹→「山吹の匂」の襲色目のこと。五節~春に使用。朽葉色(鮮やかな赤黄色)から黄色にグラデーションをつけ、最後に青(緑)色を入れる。
※萌黄→「萌黄の匂」の襲色目のこと。通年使用・祝儀用。萌黄色(黄緑色)に薄いものから濃いものへとグラデーションをつけ、最後に紅を入れる。

三が日の間、女院は(法住寺殿南殿の)西向きの御所へお出ましになり、女房達は端にある畳から南の廂を上にして台盤所の垂れ幕の端まで、畳二畳あたり三人ほど(づつ)、装束の端が重なる程にずらっと並んで、御歯固め(正月三が日の祝儀用の食べ物)、朝飼の物(朝食用の食膳)が来るのを、順次取り次ぐ。(台盤所の戸口から)食膳をリレー形式でとなりの人へどんどん渡して、御配膳役の人までまわす。
七条殿では、そのまま昼の御座所で、礼拝(元旦の祝詞を受けること)が終わってから、この作法を行った。
(女房が沢山控えていて)狭く、西の母屋まで女房、上臈がたくさん並んで控えている。西の廂と母屋を区切る襖障子
のあたりまでは中臈がご膳を持って参じる。台盤所におかれた台盤の両側に中臈、下臈の女房が二十人ほど並んで座っている。

※この部分は前半で法住寺南殿での三が日の食事の作法の様子、後半は七条殿での作法の様子が描かれる。
これを理解する前提として、「法住寺南殿」「七条殿」「蓮華王院」の関係図を載せておきます。

★法住寺
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法住寺は加茂川の東側、七條坊門小路末から八条坊門小路末にわたって存在しました。
図中のabcdすべてを総称して法住寺(広義)といいます。
この広義の法住寺は七条大路末により南北に別れ、北部分(ab)が七条殿です。
南の部分のcの部分が蓮華王院(三十三間堂)、dの部分が法住寺南殿(狭義の法住寺)と呼ばれる所です。

七条殿→建春門院の御所があったところ。
法住寺南殿→後白河院の院御所です。

★法住寺南殿
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次に、法住寺南殿の内部の様子です。
女院が正月の三が日、御歯固めの儀式のためにやってきたのは「西向の御所」です。「西向の御所」は東にありますが、西を向いているので「西向の御所」といいます。
ここは本来、御懺法堂(おせんぼうどう)で、後白河院の落飾の儀もここで行われました。

★西向の御所
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ここで「女房達は端にある畳から南の廂を上にして台盤所の垂れ幕の端まで、畳二畳あたり三人ほど(づつ)、装束の端が重なる程にずらっと並んで」とあるので、上記のような感じで並んでいたのではないかと思います。
(台盤所がどこかわからないので、仮に西の廂にあった場合の図)

★七条殿
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次に、七条殿での儀式の様子です。
七条殿の昼の御座所とは寝殿のことでしょう。そこで礼拝、御歯固めの儀式を行ったということです。
次に「西の母屋まで女房、上臈がたくさん並んで控えている。西の廂のところにたつ障子のあたりまでは中臈がご膳を持って参じる」とあります。
これは、人がたくさんいて、寝殿の廂では収まらず西の対の母屋まで女房達が控えていたということです。
建寿御前日記第四段「番のさだめ」を参照していただくと、中臈のお部屋は寝殿母屋の西の廂だと考えられます。よって、西の廂の所に立つ障子は上記のような位置にあったと考えられます。
この「障子」は「襖障子」、現在でいう襖にあたります。

※殿舎配置、資料については「『建寿御前日記』 私注(二) 本位田重美」を参照しました。

【コメント】

長い・・・。
途中で切っちゃおうと思ったのですが、一応一つにしました。

今回図にした七条殿の殿舎に関しては、上記の図がabのどちらに建っていたのかよく分かりません。多分bかと思いますが。
もちろんaには別の殿舎があったようです。

今回訳をつくり、自分の知識のなさを痛感しました。まぁ素人だからしょうがないけど。
今度ゆっくり院政期の殿舎について書いてある本など読み、より詳しく分かった段階でちょこちょこ直そうと思います。

★さてさて、清盛ですが、またちょこっとだけ視聴率が上がったみたいです。
よかったよかった。先週面白かったですもんね。

しょっぱなから讃岐へ流される崇徳院。そして院の御製を詠む西行の「瀬~を~は~や~み~」がバックに。
西行、崇徳院に会いに行ってあげるのかな?

あと、意外な掘り出し物が統子さま(上西門院)、後白河天皇の同母姉です。
セリフ回しがすごく気品があってgood!
聞いたところによると、もとジェンヌでつかこうへいの御嬢さんとか。

【建寿御前日記(本)】・・・いろいろ面白い小段でした。


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建寿御前日記 第九段 「桜の花瓶」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第九段 本文】

その夜はいでて、四月にぞ参りし。きさきの御ほどは、まして、何事も、いつかしく、よそほしき事のみ、かぎりもなけれど、幼く、いふかひなき心を、いとどおひらかに、さかしからず、見るべきことをも見ず、こゑも聞こえじとのみ思ひしかば、何事をかは見およばん。昼の御座の御帳のまへに、つくりたる八重桜の、ひとまにはあまるばかりなるを、るりのかめに、たてられたりしを、きさきの昼の御座には、かかることのあるにやと、思ひしもおこがまし。

【訳】

その夜は退出して、四月に(再度)参上した。后の格式というものは、言うまでもなく、何事も、厳めしく、威儀を整えていることはただもう限りないが、幼くぼんやりしている心を、ますます鷹揚に、小賢しくないように(謹んでいたので)、当然見るはずのことをも見ず、声も聞こえまいとばかり思ったので、何事を見及ぶことが出来たであろうか(みんな見過ごしてしまった)。

(ただ、覚えていることといったら)昼の御座所の御帳台の前に、造花の八重桜で一間に余るくらいの大きさのものが、青磁の花瓶に立てられているのを(見て)、后の昼の御座所には、こんなこともあるのだと思ったのも(考えたら)差し出がましいことである。

※一間・・・寝殿造りの柱と柱の間くらいの長さ。
※青磁・・・一般的には緑がかった青色。

【コメント】

今回は短めでした。
書いてあることといっては、后の昼の御座所の前には青磁のつぼに入った造花の八重桜があるということだけです。
青磁は古代中国に始まった陶磁器で、この時代の中国・南宋で最盛期を迎えていました。
一間あまりの桜を入れるんですから、かなり大きなものですよね。
今あったらいくらするんでしょう。見当もつきません。

後、造花を作っていたっていうのがちょっと面白かったです。
昔は造花より生花の方が多く使われているイメージですが、このような記述があるってことは結構造花も使われてたんでしょうか。
そういえば、かぐや姫に蓬莱の玉の枝を求められた車持皇子が職人に命じて贋物を作らせる話もありましたし、造花も結構あったのかもしれませんね。

★前回の「清盛」視聴率微増でちょっとほっとしてます。
NHKだから視聴率悪くても打ち切りにはならないんでしょうけど、あんまり視聴率悪いと現場のやる気がなくなってドラマの質が低下したらやだなーと思って。

先週、美福門院得子さまが後白河帝のところにやってきて、双六をしながら「天下の覇権を握れるなどとゆめゆめお考えなさるな」って釘を刺したのが恐面白かったです。
得子さまは次の帝の守仁親王(後の二条天皇)を養子にして抱き込んでるから、守仁親王に天皇親政を行わせて実質自分が政治を牛耳ろうってことですよね。
保元の乱が終わったばかりだというのに、もう次の権力闘争の幕開けです。
得子さまにメンチを切られた後白河帝は「ぞくぞくするのう、朕は生きておる」と、一寸先も分からない権力闘争に生を実感しているようでした。

歴史物のいいところであり、悪いところであるのは、今後得子さま、守仁親王、後白河天皇がどうなるか、もう分かっちゃってるところです。
知らなければもっともっとのめりこめるのに。
かといって、歴史をあんまり捻じ曲げてドラマを作られちゃうとそれはそれで興ざめだから難しいところですよね。

【建寿門院日記(本)】・・・青磁の花瓶がやたら大きそう。


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建寿御前日記 第八段 「宮仕の初め」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第八段 本文】

十二になりし年、后立ちあるべしとて、人々まゐりそひけるに、まことのも、そらごとのも、母たち、なにとか言ひさだめられけん、参るべきになりにけり。心ならずつくろひたてられしかど、いふかひなく、あきれられて、まゐりたれば、衛門佐(ゑもんのすけ)、こころよせの人とて、車よせて、姉の京極殿も居まうけられたりけり。火あかくともして、眉つくりなほしなどするほどに、常陸といひし、それも幼くて、やなぎの衵の、うへすりたるに、ひろきかけおびかけて「とくのぼらせ給へ」と、いへば、京極殿ぐしてまゐる。三河にてありけり。白く肥えて、思ふことなげなる若き人、もえぎのにほひに、紅梅のうすぎぬきて、紙燭、御むかへにとて来たり。いづくにかありけん、居るべき所とて、つくろひすゑられたるに、あなくちをし、早くよるになりにけり、こよひご覧ぜさせでとてゐたるほどに、あなうれし、きとこの御かたへおはしましたるとて、障子よりさしのぞかせ給ふにや、聞きしらぬ御こゑにて、「あないたとよ、これも、ててはかなしがりてか」とおほさるる。京極殿、「こよひもぐして参りて候。かずごとに」など、まことのしろ、さしもなけれど、よきさまに、とり申さるるに、「やがて見参(げざん)すべけれど、あまりに、かくうちとけて」とて、ちひさき御几帳とりよせられたれど、ほころびより、さしいでさせ給ひたりし御顔の、なにごともつつましく、おそろしきやうにのみおぼえて、あきれてゐたる幼きここちに、あなうつくし、世には、さは、かかる人のおはしましけるかと、ふと、見つけまゐらせたりしより、なにとなく、心のおもひつきまゐらせにしなり。

【訳】

(私が)十二になった年に、立后があるはずだということで、皆が参上し集まっていたところ、いろいろのことを母たちは何と相談し決め事をされたのか、(私が女院の所へ)参上するのがよいということになった。
自分の意思ではなく準備をされたが、わきまえもなく、ただ呆然として(御所へ)、参上したところ、衛門佐は(私達と)親しい人であるということで、車を迎えて世話をしてくれ、姉である京極殿も待ちかねていらっしゃった。

※衛門佐は建春門院の女房。筆者の家族と親しかったので、車で御所へ参上した筆者たちを迎えに出てくれた。
※京極殿は筆者の姉。すでに建春門院の女房になっており、御所で筆者が来るのを待っていた。 

火を赤くともして、眉を書き直したりしていると、常陸という、これも幼い子で、柳襲(やなぎがさね)の衵で、上には文様をすり出した衣装をまとい、広い掛け帯をかけて(いる子が近くにいたが)、「早く参上なさいませ」という声があったので、京極殿が(私を)つれて参上する。

※この「常陸という、これも幼い子で、柳襲の衵の上に文様をすり出した衣装をまとい、広い掛け帯をかけて(いる子が近くにいたが)」の部分は解釈が分かれる。
これを挿入文と解して、作者と常陸が同日に新参としてやってきたとする説と、常陸は幼いがすでに出仕している女房で、その常陸が筆者達を迎えにやって来たと解する説がある。今回は前者によりました。
※柳襲…「柳襲」の襲色目のこと。通年使用、祝儀用。緑色のグラデーションをなし、最後に紅を入れる。

(そこにいたのは女房の)三河であった。色白でふくよかで、何の悩みもなさそうな若い女性で、萌黄の匂の袿に、紅梅色のの薄絹を着て、紙燭を手にお迎えとしてやってきた。

※萌黄の匂…「萌黄の匂」の襲色目のこと。通年使用・祝儀用。萌黄色(明るいうす緑)を明るい→暗でグラデーションにし、最後に紅を入れる。
※うすぎぬ→薄く透けるような布地のこと。普通夏に着るような気がするんですが、春(現在3月)にも着るんでしょうか。よく分かりません。

(今思うとそこは)どこであったのか、控えの部屋に準備され待たされていると、残念なことに早くも夜が更けてしまった、今夜はお目見えさせてやれなくて、と待っていると、嬉しいことに、ちょっとこちらの方へ(女院様が)いらっしゃったということで、障子からちょっと覗かれたのであろうか。聞きなれない御声で「まぁ、(小さいのに)いたわしいこと。この子のことも父(藤原俊成)は可愛がっているの?」と仰せになる。京極殿が「今宵も(自分の縁者を女房として)連れて参上いたしました。数をつくして全部と言っていいほどでございます(「何人もお世話になることでございます」の意味)」などと、本当の数はそれ程でもないが、しかるべくごあいさつ申し上げると、(女院様は)「さっそく会いたいが、あまりに打ち解けた恰好をしているから」と、小さい御几帳を引き寄せられたが、几帳のかたびらの間からちらりと見えた御顔が、何ごとも気おくれがして、こわいようにばかり思われて、途方に暮れた幼い心に、「ああ、お綺麗だ。世の中にはそのように美しい人がいらっしゃるのか」とさっと目におかけ申し上げた時より、何となくお慕い申し上げるようになったのである。

※障子…ここでの障子はついたてのようなもの。

【コメント】

訳を作ったら意外と長かったです。
本でざっと読んだときに比べ、一文一文訳を作ると、それぞれの衣装も鮮やかにイメージできてより一層文章を楽しめました。
昔の人の色のセンスって繊細ですごいです。
古典を読むまで赤~ピンクの色なんて、赤、オレンジ、ピンクくらいしか意識してませんでしたが、古典だと紅梅、桜、紅、緋、丹、茜、柿、赤白橡(あかしらつるばみ)、萱草(かんぞう)、蘇芳と、ちょっとあげただけでこれだけありますもんね。

今回は筆者が初めて女院の御所に出仕した時のお話です。女院に皇太后の宣旨が下るということで、そのタイミングで出仕したみたいです。
すでに女院のところにはお姉さんの京極殿が出仕しており、筆者は京極殿の養女になっていました。

御所に上がって控えていると早くも夜になってしまい、「今日中のお目見えは無理かな」と思っていると、ラッキーなことに女院がたまたまこちらへいらっしゃって、障子のかげからこちらをご覧になり「小さいのに痛々しいこと。この子も父(俊成)は可愛がっているの?」と京極殿へのお言葉あり、その後に几帳をたててのお目見えとなります。

解説によると、父親が可愛がっているかどうかを聞いたのは、母親の身分が高くない子供は父親の愛情の厚薄がとても重要だったからということらしいです。
ただ、筆者の実の母は美福門院に仕えた加賀という女房で、通称「美福門院加賀」とよばれた人物です(後に八条院に仕え、五条の局と呼ばれます)。もともと加賀のお母さんが美福門院の乳母ということなので、筆者の母の家系は成り上がり中流貴族の家人というところです。
まぁ、中流とは言え、美福門院が国母にまで出世しちゃうので、その家人の家系だったらある程度羽振りはよさそうですよね。

そして、そのお目見えした時に拝見した女院の美しさに幼いながらに感動し、それ以来お慕い申し上げているということだそうです。
このとき、女院は26歳くらいのはずですし、そりゃ綺麗だったでしょうね。

★さて、先週から気をもんでいた「清盛」の視聴率、全国平均では何とか10%を超えてワースト更新は免れたみたいです。よかった~。
裏でサッカーをやっててこれですから、今脱落せずに見ている層はけっこう堅いってことですよね。

お話も保元の乱後半で、とっても面白かったです。
敗軍の将になった為義が、敵方になった息子義朝が戦勝の褒賞として昇殿を許されたと聞いて、泣き笑いのような顔をして喜んでいるシーンにぐっときてしまいました。
来週も面白そうなので、この調子で視聴率が上がるといいなと思ってます。

【建寿御前日記(本)】・・・意外と面白い段落でした。


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建寿御前日記 第七段 「局の中」 [【建寿御前日記(本)】]

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【第七段 本文】

人のつぼねつぼねより、こゑかけて参る女房などは、ひとりもなし。下臈までも、親、たちそひ、もてかしづく人ありて、いでいりにつけてやすらかに、つぼねの中まで、人におとらじと、このみもてなしたるかぎりなれば、何事のあかぬ事かはあらん。

親、子、姉、おとと、ならで、人のつぼねにゐたる人、ひとりなし。うへわらは、雑仕など、ふたりあるは多かりしかど、ひとりなきは思ひもよらず。中にも堀川殿は、すこしおとなにて、あさゆふ候ひしかど、昨日今日まゐりたる人のやうに、つぼねの中まで、かぎりなくしたててやまれにき。

【訳】

それぞれの局からの紹介で出仕する女房などは、一人もいない。(みんな女院との直接の関係があってお召しにあずかるものばかりだった)

身分の低い女房でも、親がしっかりついており、きちんとお世話する人がいて、出仕、退出それぞれに心配事もなく、局の中でも他人に後れを取るまいと、趣向をこらしている女房ばかりなので、何の不満なことがあろうか(そんなものはない)。

親、子、姉、妹という関係でなく、他人の局に間借りしているような人はひとりもない。そば仕えの女童、雑役に奉仕するものなど、二人使っている人は多かったが、一人も使っていないなどということは思いもよらない。
中でも堀川殿はすこし主だった立場であり、いつもお仕えしていたが、昨日今日に参上した人のように(たしなみを崩さず)、局の中まできわめて美しくこしらえるということを最後まで続けられた。

【コメント】

今回は建春門院に仕えた女房達がどんな人たちだったかという話です。
一言で言うと「みんなお金持ちでしっかりした家の人たちです」ってことですね。食い詰めて女房になるような人は一人もいませんってことらしいです。

いつも思いますが、建寿御前はプライドが高いですよね。
まぁ、そこも魅力ですか。

★さて、先週の清盛は保元の乱だったのにもかかわらず史上最低の視聴率になっちゃったみたいです。
何でかな~。崇徳院がかわいそうすぎてみんなチャンネルを変えちゃったのでしょうか(笑)


鎮西為朝の「夜討ちこそ上策」っていう建議を「卑怯者のすること」と却下しちゃう頼長&崇徳院をみて、ついつい「ああ~、こうなるのは分かってたけどだめだこりゃ」ってつっこんじゃいました。
このエピについて「アレクサンドロスだって同じことしたのに(※)結局あっちは勝ったから『さすが王者の風格』みたいに言われて、こっちはバカじゃねーの扱い」ってコメントしている人がいて笑っちゃいました。
確かにそうですよね。まぁむこうは古代だし、相手のペルシアがダメダメだったからラッキーだったっていうのもありますが。

(※)古代にペルシアとマケドニアがガウガメラで戦ったとき、マケドニアの武将パルメニオンがアレクサンドロス3世に夜襲を進言したのですが、大王は「私は勝利を盗まない」といってその進言を退け、翌朝みごとに勝利したってエピです。
ちなみに相手のペルシア軍は何していたかというと、マケドニアが夜襲をしてくるはずって身構えて夜通し起きてたので翌朝戦えなかったそうです。
夜通し起きてるんなら自分から夜襲かけろよホント。

為朝役の人ピッタリでしたね。よくこんな役に合う人連れてくると思います。
来週の予告を見たら、何だか上皇様がうつろな目をして山をさまよってました。先週にも増して可愛そうな展開が予想されます。
保元の乱に負けた上皇様は仁和寺で出家ってことになるはずですが、西行がやってくる例のエピソードもやるのかな?
楽しみですね。
今度こそ視聴率が上がって欲しいものですが。

【建寿御前日記(本)】・・・清盛の視聴率が心配。


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建寿御前日記 第六段 「女房の名寄せ」 [【建寿御前日記(本)】]

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第六段は健春門院に仕えた女房の一覧です。
「近習」と「番の女房」に分けて一覧になってます。
お側仕えが23人、番の女房が37人です。

もともと建春門院自身が上西門院(崇徳天皇、後白河天皇のお姉さん)の女房だったことからか、上西門院の所からスライドして建春門院に仕えた人が結構多いみたいですね。

【第六段 本文】

近くさぶらひし人。

三條殿    久我の内大臣のむすめ、源の大納言といひしをりいだしたてて参らせられたりける、ひせとかやと聞えし。母はたけどのとぞいふなりし。

宣旨殿    上西門院よりわたりて、もとは高倉殿とかや。公隆の宰相のむすめ。

冷泉殿    ひとつ御腹の御姉。

堀川殿    あきながの中納言のむすめ。なかたゝ同じ腹。

★新大納言殿  平家維盛の妻成親の大納言別当といひしむすめ。この京極殿の腹なり。十二三にて召されて、二三年ぞさぶらはれし。御所ちかき局給はりて、かぎりなくもてなさせ給ひき。

★内侍殿    御せうとの時忠のむすめ。この人々は色ゆりたり。

右衛門督殿  基家の妹ときこえき。これも上西門院よりまゐりたり。母はかほる督殿とかや。 
 上西門院宣旨

小宰相殿   兵部卿信範のむすめ。

帥殿     備後の前司すゑかぬのむすめ。

中将殿    大宮亮としたかのむすめ。

卿殿     としたかの弟の三河の権守とかやのむすめ。これらみな上西門院よりのひとどもなり。

督殿     なにの関白とかやの御むまごとかや。美濃の権守といひける人のむすめとかや、え知らず。

新大夫殿   伊予の守もろかぬのむすめ。母はこの院のひと。をさなくより候ひて、こんがう大夫とぞいひし。一とせよく院にさぶらひし人なり。

丹後     範玄僧正が妹。

大和     

肥後     ふたりながら、御めのと若狭殿のおととなり。

周防     その人どもの姪。今の浄土寺の二位殿ときこゆる人の姉。

三河     肥後がむすめ。

武蔵     若狭殿のせうと院てう法橋とかやがむすめ。検非違使遠業がめ。

常陸

和泉

伊賀     三人、むさしが子供。常陸がててはあらず、二人は同じてて。いづれも上西門院に候ひける民部の大夫といひけるがむすめとかや。

安芸     これは琴ひき。てては知らず。人はみな知りたるらん。

番の女房たち

みくしげ殿  花園左大臣殿の御むすめ、西の御方のおとととて、それも上西門院の人。

一條殿    按察の大納言きんみちのむすめ。頭中将ひとつ腹。せうと、車よせなどして、もてなして参らせられたり。

大納言殿(一) としみちの兵部卿の女。母は皇嘉門院の督どのといひけるとかや。のちには御前になりていだしたてき。中宮の女御まゐりにわたされて、のちに失せにき。

大納言殿(二) 宣旨殿のおとと。母はあそびとかやききし。姉の子にして参らせられたりしかば、のちに色ゆるされき。

中納言殿

★民部卿殿   あきときの中納言中むすめ。女御の宣旨のをり参りて、もてなされまゐらせけるほどに、しげのりの、いかにとかや、しばしひき入て、又あねまゐりて、いままゐりとて、みかは、かぎりなくもてなししほどに、時忠のうへになりにき。この六人ぞ色ゆりたりし。

按察殿    別当入道これかたのむすめ。母は大貳佐、このごろの別当の三位殿なり。

左衛門督殿  雅頼の中納言の女。母いへなりの中納言女、御前ばらときこえし。年老いてきけば、人の上臈と思ひげなりけるを、さも知らざりけり。男がらかはるにや。

別当殿    いへあきらの三位の女。廳の年預せし宗家が養ひぎみにて、めでたくしたてき。

権中納言殿  すけながの中納言女。

新中納言殿  琴ひきの安芸がむすめ。てては信頼の右衛門督。

兵衛督殿   もろなかの中納言女。ててのしたてたるにはかなかりかるとかや。

新宰相殿   ちかたかの宰相のむすめ。いへみちの宰相のはなれたる人とぞききし。

宰相殿    大貳重家の女。母、家成の中納言女。

三位殿    ちかのりの宰相の妹とかや。

新三位殿   たかすけの三位の女。こゑ、みめよき人を好ませ給ひしに、世に知らずうつくしきと聞えて、もてなされまゐらせき。

伯の督殿   あきひろの伯の女。とばりあげにて色ゆるされたり。

治部卿殿   帥殿のおとと。これのみぞ姉のつぼねに、ひとつにゐてわれといでたつとも見えざりし。

左京大夫殿  ぜんち法印の子とかや。尼がてての子になりて参りたりし。母は衛門佐なり。

新中将殿   さい京大夫さだたかの女。母は三河の内侍。これまでは織物の唐衣なり。このごろたかやすの三位のめとかや。

大貳殿    一條三位なかのりがむすめ。もとは中臈なりけるが、てて上達部ののち織物着る。

★今まゐり   康経の女。かぎりなくかしづきし。幼くて、中納言三位殿の子になりて参りて、上臈と申ししを、許されねば名もつかず。唐衣は、あけくれ、いとゆふむすび物などを着て、りうもんをばきず。上臈の二間にまじり居て、つぼねはたてねど、おして几帳をさしき。上臈はつぼねをたてて几帳をさしき。中臈よりはつぼねもたてず。几帳もささざりき。
これは、このごろきく新院の御めのと輔三位殿なり。

小弁殿    兵部大輔ともちかが女。今の中宮の宣旨。このごろ頭弁とかやの母よ。

刑部卿殿   皇后宮亮すゑつねのむすめ。母はとし道の大納言殿の母のおとととかや。

左衛門佐   院の御方より参りたり。そのてておぼえず。

右衛門佐   高松の院の女房。長慶得業がむすめ。このごろのむねつねの中将の母なり。親しきとて、尼が今参りせし車よせなどしき。

少納言    何とかや筑前の阿闍梨かくけんといひしが妹。

新少納言   りうか法橋とかやいひけるがむすめ。

備後     え知らず。

加賀     これも。

尾張     のぶたかがむすめ。このごろまでも残りて聞こゆめり。

長門     検非違使やすつながむすめ。

伯耆     もとなががむすめ。のちは伯の三位のうへ。このごろは斎宮の御めのとにて失せにき。

津      熊野の別当湛快が女。

土佐     八幡の別当がむすめ。

紀      武蔵の中納言知盛のめのとごとぞ聞きし。髪よかりき。

すけ     仁和寺の僧の子とかや。ただちかの中納言の思ひ人とてめでたくしたてき。のちにきけば堀川殿の母なり。

 

【コメント】

たいした内容じゃないので、今回は訳は省略で。

★新大納言殿
近習の「新大納言殿」は平維盛の奥さんです。
平維盛は平清盛の長男である平重盛の長男(次男との説もあり)、つまり清盛の孫です。母の身分が低いとはいえ、直系の長子なので上手くいけば一門の跡取りの可能性もあったわけですが、お父さんの重盛が早くに死んでしまい、一門の嫡流は重盛の弟である宗盛にうつっちゃったため微妙な立ち位置だったみたいです。
ご存知の通り富士川の戦いと倶利伽羅峠の戦いで平氏が源氏に大負けしたときの総大将です。
でも顔はイケメンだったみたいですよ。
ちなみに「新大納言殿」のお父さんは藤原成親なんですが、成親卿の妹(新大納言殿のおばさん)は維盛の父重盛の奥さんです。つまり成親卿と重盛、維盛親子はかなり親しい関係だったわけです。
成親卿は平治の乱で藤原信頼方について敗北したのに重盛との縁で助命されたにもかかわらず、その後さらに鹿ケ谷の陰謀事件に加わり、そこでも重盛に嘆願してもらって助命されます。(といってもその後こっそり暗殺されますけど)
重盛卿は君臣の道理をわきまえた忠義の臣みたいに描かれることが多いですけど、一連の流れをみると身内に泣きつかれるとすぐ聞き入れちゃうダメダメな人だってことが分かります。
常に酷薄である必要はありませんが、中央政治の権力闘争の中にある人は必要な時に躊躇なく非道なことが出来る人じゃないと結局自身の一門を滅ぼすことになってしまうんだなぁと実感します。
この点、鎌倉執権職を世襲した北条氏は君主論でも読んだのかってくらいの酷薄ぶりですが、これはこれでひいちゃいますね。泣いて馬謖(ばしょく)を切る時の涙がないとね。

作者との関係でいうと、新大納言殿は作者の姉である京極殿の娘ということなので、作者からみたら姪ってことですね。
ただ、京極殿は成親が鹿ケ谷の陰謀で失脚する前に離婚してるみたいですが。

★内侍殿と民部卿殿、今まゐり
「内侍殿」は「平氏にあらずんば人にあらず(一門にあらざらん者はみな人非人なるべし)」で有名な平時忠の娘です。
時忠関連だと「番の女房」の「民部卿殿」が時忠の妻なわけですが、彼女は後に建礼門院の女房→高倉天皇の乳母と出世します。ちなみにお名前は藤原領子(ふじわらのむねこ)さん。
「内侍殿」は領子さんの子ですかね?時忠には領子との間以外にも娘がありますが、同じ主人に仕えてるのだから領子さんの子かもしれません。

また、領子さんのお姉さんが「今まゐり」ですが、何だか扱いが中途半端ですよね。上臈と中臈の中間というか。
上臈としての処遇を申請氏したが通らず、女房名もつかなかったってことだそうです。

★それはそうと、「清盛」の視聴率がますますヤバイらしいですね。
おかしいな~。保元の乱で盛り上げると思ったのに…。
何で人気が出ないんでしょう。愛憎どろどろ劇とコメディファミリー劇場を一緒に楽しめる面白いドラマなのにな。
興味のある方はぜひ見てあげてください。
さすがに10%切ったら悲しいので。

【建寿御前日記(本)】・・・意外な有名人が女房名リストに入ってて面白いです。


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建寿御前日記 第五段 「建春門院の御日常」 [【建寿御前日記(本)】]

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今回は七条殿での生活とか、建春門院の日頃の様子とかです。
例のごとく褒めちぎってます。基本、女房が主人について書くときは褒めるんですが、建春門院は高貴な出でもないので、読んでる方は何だかな~って感じがしなくもないです。

【第五段 本文】

よきほどなる御けなりにて、常にいでさせおはします。冬は、ふたへおりもののみつおんぞなどに、御小袴、夏も、折につけたるすずしのおんぞどもの、よになく美しきにてぞありし。このごろ多くみゆるこんなどは、夏も冬も、みぐるし物とてかくさせ給ひき。

貝おほひ、いしなどり、らんごなどやうの、あそびごとをも、つれづれならずもてなさせ給ふ。さぶらふ人も、かつはうちたゆまざらんためなるべし。御まへゆるされぬ人は、ちかくさぶらふ人々の、「御所になる」とつぐるに、たちのきて、障子のとにゐる。

夏は扇どもとりちらして、たうじさぶらふ人々、ひとつづつ給はりなどす。かやうの御あそびごと、はてぬれば、やがて、あなくるしとて、うちふさせ給ふ折もあり。かりそめに御とのごもりたりし御さまなどまで、ありがたく美しうもおはしまししかな。よそにおしはかりしは、ことごとしく、よそほしかるべきほどの御身ぞかし。夏など、うちおどろかせ給ひて、あつやとて、袷(あはせ)の御小袖の御むねをひきあけて、ふたふたとあふがせ給ひし御すがたなどまで、たれもすることの、あなこのましと見えしは、ただ、人によることなめり。あいきゃうこぼるるばかりとかや物語などに書きつけたるは、かやうなるにや、あながちに、にほひうつくしげなる御ぞは、顔のいふよしなく白きに、御ひたひがみの、はらはらとこぼれかかりたりしひまびまに、御色あひのはえて見えしなどは、この世のまた、さるたぐひをこそ見ね。

大方の世のまつりごとをはじめ、はかなきほどのことまで、御心にまかせぬことなしと、人も思ひいふめりき。まことに、おはしまさでのちの世の中を思ひ合はするにも、かしこかりける御心ひとつに、なべての世もしづかなりけるを、ただあけくれは、あそびたはぶれよりほかのことなく、しばしのほど見まゐらせ聞くほども、思ふことなく、うちゑまるるやうにのみもてなして、あかしくらさせ給ひし御心のほども、のちに思へば、人にことなりけり。

【訳】

美しい普段着をお召しになって、いつも(東の台盤所へ)お出ましになられる。冬は、二陪織物(地模様の上に別の糸で他の模様を織り出した織物)の三御衣(三枚重ねの衣)などに、御小袴(をお召しになり)、夏は折々に合わせた生絹(すずし・生糸で織った布)のお着物などが、見たこともないような美しさであった。このごろ多く用いられる紺色などは、夏も冬も、見苦しいものとしてお使いなさらなかった。

貝おおい(貝をつかってやる神経衰弱)、いしなどり(小石をたくさんまいておき、その一つを投げて、それを受け止めつつ他の石を拾い、先に石を拾い終わった方が勝ち)、乱碁(おはじきのような遊び)などのような遊びごとをも、楽しくお開きになる。お仕えする女房をも、一つには退屈させないためである。お目通りを許されていない人は、近くにお仕えしている人たちが「女院のお出ましです」と告げると、立ち退いて、障子の外に座る。

夏は扇などを沢山広げて、折からお側に控えている女房は、一つずつ頂いたりする。このような御遊びごとが終わると、そのまま「ああ苦しい」と言って、少し横におなりなさる時もある。ちょっとお眠りになったご様子などまで、滅多にない程の美しさでいらっしゃたことだ。

(お近くからではなく)遠くから想像したところでは、物々しく立派なほどの御身分である(が実際、お側で拝見する女院様はとても愛らしいご様子であった)よ。夏など、ふと目をお覚ましになって、「ああ、暑い」とおっしゃって、袷(裏地の付いた着物)の御小袖の御胸を引きあけて、ぱたぱたとお扇ぎになったご様子まで、誰でもすることだが、「ああ、素敵だ」と思われたのは、ただ、人によることと思われる。可愛らしさがこぼれるばかりであるとか物語などに書きつけてあるのは、このようなことであろうか、とても美しくそまったお召し物(をお召しになり)、顔が何とも言えず白く、御ひたい髪がはらはらとこぼれかかった(その前髪の)隙間から、お顔の色が引き立って見えたことなど、この世にまた、そのような例を見たことがない。

一般の御政治をはじめ、ちょっとしたことまで、お心通りにならないことはないと、世間の人も思い、語ったようだ。本当に、お亡くなりになってからの世の中を(ご生前と)思い合わせても、優れていたお心一つで、すべて世の中も静まっていたが、ただいつもは、様々の御遊び(にお心をくだかれる)だけで(政治への介入などはおくびにも出されず)、ちょっとの間お顔を拝見し、お声を聴く時も、心配事がなくなり、自然とこちらが微笑まれてくるようにばかり振る舞われて、お過ごしになったお心の(深さの)ほども、後になって思うと、普通の人とは比べ物にならなかった。

【コメント】

今回はちょっと長かったです。

前半では、女院がどんな着物を好んだか、御前での遊びの様子などが描かれます。
後半は、女院の美しかった容姿のついて、優れた心映えについての記事です。

訳を作って気が付いたんですけど、この日記、思ったことをテキトーに書いてるように思ってましたが、結構しっかり構成されてるんですね。
さすが文学エリートです。

前半に「このごろ紺色が多く使われているが、女院はお好みではない」とあります。紺色は男の人が良く使ったとウィキペディアとかには書いてありますが、女の人も結構使ってたってことでしょうかね。面白いですね。
次に羅列してある平安の遊びについては、貝おほひはまだしも、その他の遊びの面白くなさそうです。ホント平安時代に生まれなくてよかったです。

次に、夏に扇をたくさん広げて、控えている女房達にくれるという記述があります。お勤めの途中にこんなのあったら嬉しいですよね。夏だから配ったのは蝙蝠扇でしょうか。
何となく女の人は檜扇ってイメージがありましたが、女の人も夏は蝙蝠扇なんですね。

更に、とにかく女院がかわいいという記述が続きます。
寝てても可愛いし、「熱いなぁ」と言って胸元を開いて扇であおいでても可愛い。色白で、真っ黒な黒髪が額にかかっており、前髪の隙間からこぼれる額の白さが何とも言えず綺麗だと。
使い古されたような美人の形容ではありますが、建春門院は美人だったのは本当らしいので、さもありなんって感じです。
ここで笑えるのは「小袖の胸もとを引きあけて扇で扇ぐのは誰でもすることだが、そんななんてことない仕草でも素敵だと思えるのは、ただその人がやるからいいのだ。」ってところです。つまりは「美人がやるからいいんで、そうでない人がやってもダメですから」ってことで。西施が眉をひそめると美しいが、美人じゃないひとが真似しても顔面がますますやばくなるだけですっていう例の故事?を思い出します。

最後の段は建春門院の心映えについてです。
「そんなことないだろ~」って突っ込みたくなるような美辞麗句がならべられてますが、まぁこの美辞麗句まで含めてお約束って感じですね。「あそびたはぶれよりほかのことなく(何てこともないお遊びをなさるだけで(政治には介入しない))」ってことですけど、「いやいやいや」って突っ込みたくなります(笑)。
そう言いながらも「大方の世のまつりごとをはじめ、はかなきほどのことまで、御心にまかせぬことなしと、人も思ひいふめりき。(政治だけでなく、ちょっとしたことまで、心通りにならないことはないと世間のみんなも思っていた)」ってことですから、語るに落ちてます。女院のパワー恐るべし。

【健寿御前日記(本)】・・・長くて疲れました。


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建寿御前日記 第四段「番のさだめ」 [【建寿御前日記(本)】]

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珍しく「建寿御前日記」を着々と更新してます。
先週の「清盛」の予告で建春門院さまが出てきてましたね!
しかも誰に対してだか知らないけどあっかんべーをしてました。

「清盛」での後白河院は今のところ傾奇者なので、二人のやり取りがどんなものになるのか楽しみです。

【第四段 本文】 

あさゆふさぶらひし人は、定番の女房とぞいひし。ありつき、やすらかにふるまひなして、若き人々などいひをしふ。さらぬは、番とて、月まぜに候ふべしとおぼしけれど、年のはじめ、ころもがへ、五月五日、七月七日などのやうの、ひひ二との御はななとには、さながらさぶらふ。上臈は、御前につづきたるふたまとて、七條どののふたむねにつづきたる寝殿の、北の廂の西のはしなり。人すくなき時は、このふたま、おほかるをりは、西のひとまをあけあはせて、うちとくるよなく、そでつま、うちみだれず、つくろひゐたり。

中臈よりしも、これにつづきたる臺盤所に、おなじさまにてさぶらふ。近うさぶらふ人は、ひんがしの臺盤所とて、むかひたるかたをとほる。いりたちの人々などはそれにゐる。この上臈のさぶらふ二間には、しげきをりは二三日、まぎらはしきほどなどは四五日になる時もありき。

【訳】

朝夕お仕えした人は定番の女房と言った。御所の生活に慣れ、いかにも穏やかにふるまって、若輩の女房などを指導する。そうでないのは番と言って、ひと月ごとにかわるがわるにお仕えせよとのお考えであったが、年の初め(一月一日)、衣替え(三月三日)、五月五日、七月七日などの、「ひひ二との御はななとには(この部分不詳)」、交代しないでそのままお仕えする。

※ひひ二との御はななとには→「(前から続いて、~の)日々、二度の『御花(おんはなな)』などには」の意味との解説も。
「二度の御花」とは後白河院によって始められた五月と九月の供花会のこととあり。

上臈女房のいる部屋は、女院様の御座所に続いた二間で、(女院様の御所である)七条殿の二棟に続いている寝殿の、北の廂の西の端である。人少なである時は、この二間を使い、多いときは、西の廂の一間を先ほどの二間と合わせて開けて、気を許すような時もなく、袖の端も少しも乱れず、服装を正して控えていた。

中臈より下の女房達は、先ほどの二間に続いた台盤所に、同じようにして控えている。近くお仕えする女房は、東の台盤所といって、先ほどの台盤所の向かい方にある部屋を通る(=部屋に入るの意味)。親しくお仕えする人々はそこにいる。この上臈の控えている二間には、御用の多いときは二三日続けて、さらに忙しいときは四五日続けて控えていることもある。

【コメント】

今回は、お側にお仕えした女房の勤務システムとそれぞれどこの部屋に控えてたかって話です。
文章に起こすと面白くない内容で。
こんなのは端折っちゃったほうがいいのかも。
ただ、こんな一寸した文章にも、建寿御前の「私たちはそんじょそこらの女房とは違うのよ」という自意識が感じられて、そこが面白いと言えば面白いかもですね。

この建寿御前日記、全部で七十段あり、できれば「清盛」が大河である内に終わりたいと思ったのですが、よく考えたら、そのためにはひと月に九段位記事にしてしていかないといけないという。
常日頃、月に5、6回しか更新しないのに絶対無理ですよね。
最近頑張って更新してるけど、それもいつまで続くことやら。

でもまぁ、タイムリーで面白そうな段は順番を入れ替えて記事にしてもいいかなとは思ってます。

★七条殿の図

001.JPG

これは、本文に出てきた七条殿の予想図です。
本段と「萱の御所の火(第三十四段)」、をあわせて考え、こんな感じだと思います。

母屋→女院がいるところ。
北の廂の西側二間→上臈女房がいるところ。
北の廂の西側二間に続く西の廂→人が多いときに使う部屋。

中臈~下臈の女房の部屋がどこなのか、問題なのですが、
「中臈より下の女房達は、先ほどの二間に続いた台盤所に、同じようにして控えている。」
とあります。
ここで「先ほどの二間」が上臈女房の部屋を指すことには争いがないでしょうから、可能性としては、
1、上臈の二間の東側(北の廂)
2、上臈の二間に続く西の廂のさらに先(西の廂)
という二つが考えられます。

仮に2だと考えると、上臈の部屋と中臈らの部屋の間に臨時の拡張部屋が入ることになり、「先ほどの二間に続いた台盤所」と言えるのか疑問です。

しかし、この文章に続き
「近くお仕えする女房は、東の台盤所といって、先ほどの台盤所(中臈らの台盤所)の向かい方にある部屋に入る。」
とあります。
「東の台盤所」は東の廂にあるのでしょうし、その「向かい方」とは「母屋を挟んで向かい方」ということでしょう。
となると、先ほどの台盤所(中臈らの台盤所)は西の廂にないといけません。

よって、中臈らの部屋は「2、上臈の二間に続く西の廂のさらに先(西の廂)」ということになる筈です。
ただ、そうなると先ほどの、上臈の部屋との間に臨時の拡張部屋が入ってしまうのが問題なのですが、これは臨時部屋なのでこれも含めて「先ほどの二間」と言ったのか、もしくは中臈らの部屋の一部を上臈が臨時に使ったのかどちらかではないかと思います。
正直よく分からないので、後日何か資料でも見つけたら追記します。

 ※上記配置図は「『建寿御前日記』私注(二) 本位田重美」を参考にしています。

【建寿御前日記(本)】・・・訳したらつまんなかったかも。


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